第20回 歯科医師夫婦のつれづれ手帖

歯科医師夫婦のつれづれ手帖は、歯科医院を共に営む夫(真面目なのでここではマジオ君)とともに、医院を訪れる患者さんに自分たちの人となりを知ってもらいたいという気持ちから、2014年から書き始めた小さな文章。
なんだかんだで続いています。
ルールは2つだけ。
1 必ず毎月、どちらかが書く。
2 内容は、歯科治療以外の事とする。

歯科医師夫婦のつれづれ手帖 Vol 20
ぶらずにらしゅうせよ

当院の前にバス停があるのだが、冬になると利用する高校生が多くなる。受験生だろうか、バス待ちの間も寸暇を惜しんで勉強している姿を目にすると、心の中で「頑張れよ!!」と声をかけてしまう。

私は1年間浪人したが望みかなわず、第二希望の道に進んだ。第一希望にこだわり更に浪人を続ける精神力は、私には残っていなかった。現在、やりがいを感じながら仕事出来ているため、その判断を後悔してはいない。しかし、当時は自分がちっぽけな人間に思われ、しばらく友や師と積極的に連絡をとることを避けていた。希望の進路に進みいきいきと生活する友も、二浪三浪し頑張る友も輝いて感じた。

「友がみな 我よりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て妻としたしむ」。

石川啄木のこの歌には、当時の私の心情に通じるものがある。

そんなある日、掃除していて手にした生徒会誌に寄稿されていた、校長先生の「『らしく』について」という文章に引き付けられた。

「高校生らしく」「公務員らしく」等、「らしく」という言葉は日常生活の中で常に耳にするが、その意味するところを自分なりに納得することが出来なかったという。たまたま読んだ高神覚昇著の「般若心経講義」で次のような一節にぶつかった。『五代目菊五郎が「ぶらずにらしゅうせよ」といって、常に六代目を誡めたということですが、俳優であろうが何であろうが「らしゅうせよ」という言葉は本当に必要です。』という一節だ。先生は、「らしく」の前に「ぶらずに」という言葉を置くことによって、それまで頭の中でもやもやしていた霧のようなものが晴れていく感じがしたと述べる。「らしく」の中に何となく含まれているように感じていた驕りや、無いのに有るふりをするという意味を、「ぶらずに」という言葉に移してしまった為であろうと考察している。

私はこの文を読み、プライドにとらわれて、窮屈になっていた自分に気が付いた。「偉ぶらず、見栄を張らず、与えられている環境で最善を尽くす。」それが大切なのだと。その時にやれることを懸命にやっていると、いつの間にか世界が広がり、次にやるべきことや道筋が見えてくる。私自身がその後の経験から感じていることである。

人生思うようにならないことも多いが、「くさらずに、ぶらずにらしゅうし、出来ることを行おう!」と、老婆心と思いつつ若い人たちに言いたくなるのである。( 文:まじお)

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